留学図書館 代表 平川 理恵さん

ビジネススクールという風に乗りたいのか乗りたくないのか、
そして乗ると決めたら、その経験を最大限ポジティブなものに昇華することです


留学図書館 代表 平川 理恵さん

Profile
同志社大学国文学専攻を卒業後、(株)リクルートで就職・転職の企業コンサルティングを6年間担当。1997年、リクルートからの企業派遣で南カリフォルニア大学(USC)大学院エグゼクティブMBAに留学。帰国後、日本の大学のコンサルティング業務に就く。
'99年に留学コンサルティング会社・留学図書館を設立する。



就職試験100本切り!? その真意は?

−−平川さんは、ベンチャービジネスの旗手として、最近マスコミから大変注目されていますが、元々は、潟潟Nルートの社員で、コンサルティング営業をされていたということですね。
平川 いわゆる営業マンですよ。新人時代は靴底を減らしつつ、飛込み営業をして広告を取ったりしていました。
――そのリクルートに入社する前、大学時代に、なんと100社以上の就職試験を受けまくっていたというのは、本当ですか。
平川 本当です(笑)。
私が就職活動をしていた'90年は、バブルの真っ最中、折りしも男女雇用機会均等法が施行された時期でした。当時は、今とは正反対の超売り手市場でしたから、1社受けただけですぐに採用通知がもらえる恵まれた状況でしたね。
――それがなんでまた、100社の就職試験を受けることになるのでしょう。
平川 正直に言うと、当時、自分がどんな職種や業種が向いているのか、皆目検討もつかなくて、それだったら、どんな仕事をするかより、どういう環境で働きたいかということから仕事を探してみようと思ったわけです。それで、女性が肩を張らずに自然に楽しく仕事をしている会社を見極めたかったということと、新卒という人生に1回しかない好機を利用して、いろいろな会社を見てみたいと思ったからです。中途採用は経験の採用ですが、新卒採用はポテンシャルの採用、可能性を買ってくれるわけですよね。可能性だけで採用してくれるチャンスなんて、人生に1回しかありませんからね。この時期にできることはなんでもしておこうと思いました。
――"女性が肩を張らずに、自然に楽しく仕事をしている会社"は、どういうところで見極められたのですか。
平川 面接で、"御社でいちばん輝いている女性社員の方に会わせてください"とお願いして(笑)、そこで判断させていただきました。某大手の都市銀行で、"お仕事、楽しいですか?"と、"輝いている"女性社員に質問したら、"仕事をなめるんじゃない"とたしなめられたりもしましたけれど(笑)。その中で、リクルートの女性社員の方が自然に見えたし、自分に合っているように感じられたんですね。

"花瓶の水をかけられる"ような毎日の中で、培われたビジネスマインド

――あまたある採用通知を蹴って平川さんが選んだのが、リクルートの営業職だったわけですね。しかし、当時リクルートはその過酷な勤務状況でかなり有名だったように記憶していますが。
平川 今でも過酷なはずです(笑)。ただ、私は、新人時代というのは"丁稚奉公"時期であるという意識がありますから、全て勉強だと思って働いていました。
――とはいうものの、"飛び込み営業"もされていたそうで、これはなかなかキツイ仕事ですよね。
平川 あれほどキツイ仕事はそう他にないと思いますよ。"ビル倒し"といって、ビルの上から下まで"採用ありませんか?"と聞いてまわり、名刺をもらう毎日でした。相手の虫の居所が悪いと、罵倒されるどころでは済まなくて、花瓶の水をぶっかけられたこともありました(笑)。そのまま自分の家にも寄らず、新幹線に飛び乗って大阪の実家まで帰っちゃったり(笑)。そうやって、1日100社を訪問する日が続きましたね。
――大変だったんですね。
平川 その代わり得られたもの大きかったですよ。まず、度胸がつきましたね。今でも、初対面の人と会うことに苦痛は感じませんね。それから、とりあえず行動してみるという反射神経が身につきました。ことに対処するときに、ひるまずにぶつかることができるんです。

グローバルスタンダードの必要性を感じたとき、"留学"の2文字が浮かんだ

――そんな生活の中で、留学を考えるようになったきっかけは?
平川 正直言うと、留学なんてまるで考えないタイプの人間だったと思います。大学で国文科に入学したのも、英語が苦手だったから、英語の試験のないところを選んだ結果でしたから。
新人時代の飛び込み営業から4年、日本の大小企業への採用・組織の問題についてのコンサルティング営業に携わる日々の中で、ある中堅メーカーの社長さんにお会いしたことが留学へのきっかけです。その方は、"月か太陽から地球を眺めている"ような視野の持ち主、たとえば、アメリカに進出して一旗上げるなんていう気負いが毛頭ないわけですよ。条件がいいところ、資源があって、仕事があれば、国内であろうが国外であろうが、宇宙であろうが、舞台はどこでも構わないというまさにグローバルスタンダードかくありなんという姿勢なんです。一方、当時の私にとって世界は、球体ではなくて小学生のときに社会科で習った平面地図のイメージ、真ん中に日本があって、そのまわりを諸外国が囲んでいるという捕らえら方しかできていなかったんですね。その人と私とは、まるで世界観が違う。こういう視野の持ち主である社長が、頭の中に平面地図を描いているような私に、本気で自社のコンサルティングの相談をもちかけてくるわけがないと思いましたね。恋愛経験のない人に恋愛の相談を持ちかける人がいないのと同じです(笑)。この社長のようなグローバルな視点は、これからの時代、ビジネスにおいて絶対必要とされるものなんじゃないかと思って、この視点を得るためにはどうしたらいいんだろうと、そこで、"留学"という2文字が浮かび上がりました。
――そこでまず、留学準備を始められて?
平川 いいえ、まずアメリカに飛ぶことになります(笑) 

勉強と仕事との両立は厳しい


平川 とりあえず、アメリカの中でも日本からいちばん近い西海岸のロサンジェルスまで飛びました。空港でレンタカーを借りて、右車線を逆走しながら(笑)、ロサンジェルス近郊にある大学をかたっぱしから見てまわりました。英語ができないのでキャンパスビジットのアポも取れず、そのまま"飛び込み"訪問です。
アメリカの大学の印象は、非常によかったですね。まず、当たり前ですが、いろいろな学生がいることに感銘を受けました。黒い人、白い人、ターバンを巻いた人、いろいろです。授業風景も、日本の大学の一方通行的な授業とは全く違っていて、学生と先生、学生同士など、双方向、ディスカッションで成り立っているという点が気に入りました。
キャンパスビジットさせてもらった大学でいろいろ説明してもらったのですが、英語だからよくわからない(笑)。でも、アメリカの大学に入学するためにはTOEFLというテストのスコアか必要だということだけは理解できました。TOEFLについて知ったのは、そこが初めてなんです(笑)。
それで、日本に帰国してからすぐにこのTOEFLを受けてみたら、なんと、400点ちょっとしか取れなかった。頭を抱えてしまったのですが、とりあえず、留学資金もなかったので、資金を貯めることと、英語の勉強を始めるところからスタートしました。
――TOEFL400点は、かなり厳しいスタートといえそうですね。そこから600数十点に上げるまで3年間近くかかったようですが、どのような生活をしていたのですか。
平川 夜の11時に帰宅してから、朝方まで勉強をしました。日中は、営業で外回りが多かったので、クライアント先からクライアント先までの間は、リスニングの勉強のためにテープレコーダで英語を聞いて、お昼は単語帳を片手に食べてと、体が壊れる…と本気で思いましたよ(笑)。でも、本当に辛かったのは、勉強の辛さより仕事との両立です。営業マンとしてのプライドというか、目標ははずしたくなかったから、仕事もがんばっていたし、営業成績を維持しながら勉強するのは正直辛かったです。留学のために休職する日に、"あーこれでもう仕事をしないで勉強だけですればいいんだ"ということが嬉しかったぐらいにね。
――当初は、会社を退職して自己資金で留学する計画だったのが、会社の社内選考に見事合格して、社費留学となるのですね。

"ヒト"で留学先を決定する

――社費留学扱いとなって、EMBA(エグゼクティブMBA)に見事合格されますね。
平川 もともとMBAはあまり気が進まなかったというか、広告を勉強しようと考えていました。MBAというと、拝金主義のビジネスエリート達が集まりところというイメージが先行していたし、経済学、財務論、会計学なんて一般的なことやったって…所詮ビジネスは足腰が命、ビジネスを机上の理論で回していけるか!という非常に日本的発想の持ち主だったんです。ただ、広告についてものすごく勉強したかったのか聞かれると、別にそんなこともなくて、なんとなく、"リクルートだから広告"という非常に単純な発想で(笑)、だからまたそこで悩んでしまったのだと思います。それでまたアメリカに飛んで考えることにしました。
――またですか。すごいですね(笑)。
平川 私は、とにかく手と足を動かしながら、まず行動しながらいろいろ気が付いたり決定したりするタイプなんです。
2回目の渡米では、広告とMBAの両専攻を見学して、MBAで学んでいる学生達にシンパシーを感じました。MBAの学生たちは、ビジネス経験をある程度積んだ上で集まって来ていますから、大人が多い。これに比べると広告を学んでいる学生たちは、学士過程を卒業してそのまま入学しているから、実年齢も24歳前後だし、授業を見学していても、頭でっかちの子供達という感じですよね。現実に、ビジネスにおける苦労を知っているか知らないかというのは、大きい違いだと思います。そこで、"授業内容を取るか、来ている仲間で決めるか…"悩んだ結果、"留学は勉強だけではない。経験を大切にしたい。特に私は実地型だし、そもそも国際的な広い視野を持った人間になりたいのが留学の目的だったし"という理由から"ひと"を選択しました。

勉強による過労で病院に運ばれること3回。"過酷な"(?)留学生活

――南カリフォルニア大学のEMBAにおける学生生活はいかがでしたか。
平川 英語があまり得意ではなかったということもありましたし、大学では国文を専攻して紫式部を研究していたわけで、アカウンティングとかファイナンスとか初めて聞くようなことばかりでしたから、大変でしたね。1年間の在学中に、勉強のしすぎで倒れて、3回も救急車で運ばれましたから(笑)。仕事で多少無理してもびくともしない私ですが、勉強ではバタバタ倒れるわけで、我ながら、勉強が向かないんじゃないかと思いますね(笑)。"卒業できない"という夢を見てうなされることもしょっちゅうでした。
――それでも、無事ご卒業されていますよね。
平川 同級生である世界のエグゼクティブおじさんたちに非常に助けていただきました(笑)。EMBAには、コカコーラの課長やシティバンクの部長など、一流企業の比較的ポジションが上級で、年齢も28歳から46歳までの年配の学生たちが集まっています。そのおじさんたちに勉強を教わる毎日でしたよ。彼らには本当にかわいがってもらいましたね〜。
EMBAでは、月曜日から金曜日まで毎日、朝の9時30分から夜の9時までずっと授業。週末はチームスタディが入ります。学生数も、1学年に50人程度と、非常に密度が濃いんですね。ちょうど、高校時代に戻ったような生活ですね。朝から晩までずっと一緒に勉強して助け合いますから、否応なく学生間の連帯感は強いものになります。
――ところで、留学中、いちばん嬉しかったことは?
平川 卒業できたことです。もう勉強しなくていい、やっとこれで日本に戻れると、その瞬間思いました(笑)。あんなに勉強したことはなかったし、もう2度とゴメンですね(笑)

留学経験を通して、自分の価値基準を持てるようなった

――MBA留学経験を通して、いちばん身に付いたことはなんですか。
平川 いろいろな経験を積んで、いろいろな国の人と喧喧囂囂と話し合ったり口論したり、そこでもまれた結果、まだ小さいし不確かなものではありますが、自分の"ものさし"ができたことだと思いますね。それまでの私は、他人のものさしで生きていたんですよ。自分がその対象を好きとか嫌いかということさえ、はっきり言えなかったし、たとえば30歳までには結婚しなければいけないとか、漠然とそういうものに縛られていたり。自分の価値観を持たない人は、いつだってまわりに影響されて、自分に自信が持てないものです。
――そんな風には見えませんね(笑)。
平川 他人のことは気にしないと言いつつも、それは絶対ウソですね。みんなが茶髪にするから茶髪する。この服が流行だから着るということは、全てそうでしょう。
 今は全くそういうことが気にならないですね。洋服も髪型も含めて、私が好きだからそれでいいんだと思えます。留学経験を通して、そういう自分になれました。

自由とは、自分で考えて、自分で決断して、自分でやっていくこと

――留学後日本の会社に戻ると、逆カルチャーショックに陥るMBAフォルダーはかなり多いようですが、平川さんの場合はいかがでしたか。
平川 帰国後は、アメリカの大学経営を日本の大学へ参考にしてもらうことをミッションとした大学に対してのコンサルティング営業に携わりましたので、それなりに学んできたことや経験してきたことも生かせたし、私の場合は逆カルチャーショックということはなかったんです。ただ、他にものすごくしたいことができてしまった。
――ライフワークとなる留学コンサルタントですね。
平川 当初は、リクルートに勤めながら、個人的に留学相談に乗るという形でスタートしたのですが、やはりそれだとできることに限界がありました。それで、会社を辞めて会社を起こすことにしました。
――会社を辞めることに不安はありませんでしたか。ネームバリューを含めた大きな後ろ盾を失うことになりますよね。
平川 不安はありましたけれど、私の場合、やりたいことができると、夜寝るときに思いつめて、鼻血が出そうになるほどエネルギーが充満してしまうんですよ(笑)。
 それから、私にとって事業を起こすということの魅力は、やはり自由を手に入れたということですね。自由に生きていたい。自分で考えて、自分で決断して、自分でやっていきたい。それが私にとっての自由です。

会社創設3ヶ月で黒字経営に


――起業するときの資金などは、どうされたのですか。
平川 サラリーマン時代の貯金です。といっても、私は企業派遣で留学しておきながら留学後すぐに依願退職してしまったわけで、会社に違約金を支払う必要がありましたから、そこで貯金も底をつきまして、会社設立のための申請料金300万程度しかなくなっていましたね。
 3年前にこの留学図書館を設立した時は、資金もほとんどなく、スタッフも私1人というところからのスタートです。1人で事務所を借りて棚を作って、机やイスも自分でセッティングして…。
――まさに、ベンチャーですね。ところで、収支決算はいつから黒字に転換したのですか。
平川 会社設立から3ヶ月目には黒字になって、半年で設立資金を回収できました。現在、設立3年目で、弊社の会員数は2000人を超え、スタッフも15人に増えています。
――ものすごい躍進振りですが、数ある留学コンサルタント業社の中で、留学図書館が抜きん出て人気が高い秘密、成功の秘訣はどういう点だと考えますか。
平川 多くの留学コンサルタント業者では、コンサルティング料金を無料にする代わりに、スクールと提携し、斡旋して利益を生み出している構造ですよね。ですから、一人一人の事情に合わせたコンサルティングは不可能だったと思うのです。私自身が留学経験者ですから、自分だったらそういう留学コンサルティングは受けたくないというところからスタートしていますね。私が目指したのは"オーダーメイド留学"です。各人のニーズと事情に合わせた留学を作り上げることがコンセプトなんですね。たとえば、留学予備校を利用するのでも、その全てを依頼したいという人がいる一方、コンサルティングは留学準備の半分程度でいいと思う人や、ほとんど自分でやりたいけれど、資料だけが欲しいという人など、さまざまだと思うのです。利用したい程度にあわせて、必要な分だけこの留学図書館を利用して欲しいと考えています。
――留学コンサルティングのオートクチュールを目指していらっしゃるのですね。その目論見は成功していて、利用者の多くは口コミが多いということですね。
平川 あまり広告を出していませんから、利用者の3割が口コミだったり紹介だったり。クオリティーに対する信頼から、仕事が広がってきていますね。

自由が丘は、未来のことを語る場所

――ところで、留学図書館は東横線自由が丘駅という、東京でも多少ローカルなところにありますが、もっと便のいい東京駅とか新宿駅などでの展開は考えていないのですか。
平川
 それについては、設立するときにかなりいろいろ考えた点なんです。確かに利便性だけを考えるなら、東京駅や新宿駅がいいですよね。でも、コンサルタントという仕事は、イメージという側面も軽視できない業種であると思うのです。たとえば、"歌舞伎町にある留学図書館"と"自由が丘の留学図書館"では、人に与える印象が違いますよね。さらに、渋谷や新宿など、人口密集地で見知らぬ人と肩がぶつかりながら、留学という未来のことを考えたり相談したりするのではなくて、自由が丘という視界が比較的開けた余裕のある場所で、ゆっくとり語りたかったという、戦略的に意味合いもあって、この自由が丘を選びました。これは成功したと思っています。
今後も、会社の規模を大きくするという方向性で成長するのではなくて、そのクオリティーもますます高めるという点での成長を目指したいですね。

留学は所詮自己満足。だからこそポジティブに昇華させたい


――最後に、留学コンサルタントという立場と、MBAフォルダーという立場から、何かメッセージはありますか。
平川 留学って、MBAに限らず、自己満足の世界だと思うんですよ。別に留学しなくても生きていけるし、留学しないから仕事ができないわけじゃない。要するに、自分がやりたいかやりたくないかということです。留学のバリューとかリターンとかいろいろ考えても、絶対的な答えなんて存在しません。留学すること、しないこと、それぞれにメリットとデメリットが双方あります。所詮グレーの答えしか返ってこないわけです。結果として、出た答え、得られた経験のどこに価値を置いて判断するのかということでしょう。トップ10位内の一流ビジネススクールを卒業しても、ろくでもない生き方しかできない人もいますし、語学留学を通して、素晴らしい経験を得てそれを非常にプラスに生きている人もいる。
 ビジネススクールという風に乗りたいのか乗りたくないのか、そして乗ると決めたら、その経験を最大限ポジティブなものに昇華することですね。







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